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【野口代吉】 清作との友情生涯続く  〈1/11〉
 
清作と代吉の名前が出ている三ツ和小学校の成績表
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 野口英世の少年時代は清作といっていたが、清作の2軒西隣に野口代吉という子どもがいて、2人は小さいころから大の仲良しであった。代吉は旅館松島屋を営む大きな農家である野口文喜に小さいころに養子に入った人であった。

 松島屋は、村内でも裕福な家であり、殊に松島屋の娘キワは、清作の母シカの親しい友人であったこともあり、清作が近所の三ツ和小学校に通うことになると、松島屋では筆や墨、本などを一切買いそろえてくれたのである。

 清作は代吉の祖父長平から当初「いろは」の書き手本をもらって習っていたようだが、さらに楷かい、行ぎょう、草書そうしょの3体が書いてある難しい漢字の手本を長平から借りて習い始めた。

 三ツ和小学校は、明治6年に村の庄屋であった二瓶橘吾宅で三城潟小学校として開校した。同8年に三城潟村と新在家、50軒とが合併して三ツ和村となり、学校が手狭になったので、同地区内にあった旧会津藩米を納めた郷蔵を改築して移転、湖潟小学校と改めた。

 その後、同12年に三ツ和小学校と改称、同22年4村が合併、翁島村と称し、学校は同26年に翁島小学校と改称し、現在に至る。

 清作の生まれた三城潟村は、鎌倉時代には猪苗代湖畔に3つの城があったことに由来。会津藩時代には藩の年貢米の集積地として、また若松と二本松を結ぶ街道筋にある宿場、さらには猪苗代湖上交通での港を持つ要衝地であった。明治になっても村役場や学校、郵便局などが置かれたところで、鉄道が開通するまではにぎわっていた。

 清作は、小学校へ入学した年の9月には早くも学術優等賞を受けるなど、卒業するまでの間に数々の賞をもらっている。その清作の勉学を支えた人には、松島屋のほかにも近所の駐在所の宍戸豊之助巡査をはじめ、野口家の菩提寺ぼだいじ・長照寺の住職楠是本などもいた。

 清作はいつも代吉と遊んでいた。代吉は自分の家の水車を利用した精白米所であるバッタリの番をしていたので、清作はよくそこに出掛けた。夜中にバッタリ小屋から度々米が盗まれることがあるので、そこに代吉と一緒に泊まることも度々であった。


2人で相撲より仲良しに

 そんな天気のいいある日、代吉と清作は、草の上で寝転んで休んでいると、代吉は何を思ったのか「おい清さん…一番相撲取ろう」と言い出した。代吉は清作より1歳上でありながら、いつも成績では勝てないので、相撲だったら勝てると思ったに違いない。ところが、清作に見事負けてしまった。力自慢の代吉であったが、相撲でも負けてしまったことになった。それからは、2人はますます仲良しになっていったという。

夜は風呂番しながら勉強

 清作が猪苗代高等小学校に行くことになると、勉学に一層身を投じることになる。清作は油代を節約するためにも、松島屋の風呂番をしながら夜はそこで勉強をしていた。こんなエピソードも残されている。

 旅館のお客が風呂に入っていると、なかなかお湯が温まらない。風呂番をしている清作を見ると、読書に熱中して釜に薪まきを入れるのを忘れていたという。また、清作は本を読んでいて、石鹸せっけんと軽石とを間違えて一緒に風呂に入った代吉の背中を、擦ってしまったりした。

 大正4年、英世が帰国した時に、代吉は訳あって郡山に住んでいて会えなかった。英世は新潟から東京に戻る時、郡山駅で代吉のことを思い出し、人力車を出してわざわざ会いに行った。慎つつましい生活をしていただけに、英世が忘れないで訪れてくれたことに代吉は涙した。2人の友情は、生涯続いた。
 


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